同い年の君へ
前回のポストの通り、生き延びることを許された私はあれからより一層、一日一日を大切に生きています。
今年ほど歳を取ることを幸せに感じた誕生日はなかった。大いに生を満喫した6月も終わり、来て欲しくなかった「中野サンプラザ最終営業の日」がやってきた。中野区出身者だから隣の区役所のほうが引越しやら出国やら結婚やら離婚やら入国やらで入場回数は多かったけど、ここで執り行われた成人式はバックレてバイトに勤しんでたけど、それなりにこの三角の建物には思い出がある。
なんせ同い年の同じ月生まれ。出生届を出して区役所を出た父は、出来たてほやほやのサンプラザを見上げたんだろうと想像する。
子供時代、朝昼晩ベランダから見えるいつもの風景にサンプラザはあった。向こうに新しく都庁ができたりして忘れられない眺めだ。
父と弟とよく自転車に乗って、サンプラザ地下のプールに行った。
サンプラザは実家きら自転車で20分ほど。そこそこの距離だけど歩いて帰ったことがある。
『PRISMIC』を出した頃のYUKIのライブ。お酒も飲んでないのに、多幸感を撒き散らしながら泳ぐように早稲田通りを帰った。
サンプラザのステージに立ったこともあった。ヤマハ音楽教室の発表会。合奏で何人かいる鍵盤楽器担当のうちの1人だったけど、数年後同じ仕切りで弟がティンパニーを担当。かなりのステージ映えをみせつけられ、やられたと思った。
友達がやっていたバンドの解散ライブに招待してもらったこともあった。世田谷の飲み屋にいつもいる顔ぶれがサンプラザの2階席に一緒にいることがなんだか不思議で楽しかった。解散ライブではあったのだけど。
奇しくも最後の年に入院で数週間、ご近所で寝起きすることになった。目覚めてしまった早すぎる朝に、真横から朝陽を浴びるサンプラザはダイナミックで美しかった。
最後の日に向かう一連のイベントとはなんだか距離を感じで全く参加しなかったし最終日など言わずもがなだったけど、
営業最終日翌日の夜、ウォーキングの足を延ばして行ってみたら、私とスタンスを同じくするような同士がチラホラ。
カリヨン時計の麓に座ると、湿気を飛ばす夜風が吹いた。頬を撫でる風だけはあの頃のプールの帰りと変わらなかった。
意識障害、緊急搬送、走馬灯
(先に書いておきますが、入院中時間をかけて隈なく検査いただき出た診断名は「自己免疫介在性脳炎」でした。この病気は重篤なものから軽度のものまで様々あり、当初意識障害がひどく重篤だったにもかかわらず周囲も驚く回復で寛解することができました。入院先の主治医をはじめ、入院前にお世話になった病院やクリニックなど、ご尽力いただいた医療職の皆様には心から御礼を申し上げます。)
4/1 エイプリル・フール
親友のYと代官山で夕ご飯まで過ごす。さっきまで元気に飛び跳ねていたのだが、いつものような食欲がない。少し前から気になっている、お腹の張りもMAXな感じ。帰宅のゆるやかな坂を上るのにもお腹を押さえながらでないとしんどい。
夜中に下腹が痛くて目が覚める。胃腸系ではなく、何となく婦人科系のような。先々週ホルモンチェックのオマケに受けた子宮体がん検査のことが気になる。とにかく眠れないし不穏なので#7119に連絡し、夜間対応病院をリストアップ。自力でタクシーに乗り、エコーと触診で診察を受けるも見た限り消化器および骨盤内には緊急性のある異常はないとの判断。私が食い下がると研修医は先輩医師を呼んでくれたが、判断は同じだった。
先輩医師は「 お金もかかっちゃうし、一刻を争う症状でない限り、夜中に病院に来るものではない」的なことをやんわり言ってきたが、私にとっては人生初の、一刻を争うくらいに感じる痛さだったのである。モヤモヤしながらタクシーで帰宅すると夜中の3時だった。
4/2 助っ人来たるも暗雲
近所に住む母が朝来る。春先から毎週のように公園のカワセミを観に行っているので、今日もそのつもりで我が家に集合。しかしやっぱり調子が悪い。お腹が痛いだけじゃなく、歩くのがしんどい。頭も痛い。耳鳴りがする。昨晩寝れなかったせいかもしれないが。
今日になって不正出血も少しあったので、母に体調のことを打ち明ける。婦人科疾患を疑うしかない頭になり、先輩のアドバイスで翌日都心にある著名婦人科にいくことになった。
4/3 心配すぎてセカンドオピニオン
通勤ラッシュの中電車に乗れる体調ではないので、タクシーで著名婦人科へ。母がついてきてくれた。1人で行動するのが難しいくらい、フラフラなので正直助かる。
クリニックに着くと朝イチなのに30人くらい待っていて、診察を受けたのは14時過ぎ。
エコーと触診では既往症の子宮筋腫以外、所見なし。こんなにお腹痛いのに?!そこで、近所のクリニックで既に受けている体がん検査以外のあらゆる女性疾患についても調べてもらうべく、組織や血液を提出。生まれて初めてMRIも受ける。結果は2週間後。
4/4〜4/10 自宅で意識が飛びはじめる
横になったりならなかったりの中、意識がたびたび飛び始めるが、ハッと気づいて起きる(寝ようとしない)の繰り返しが数日続く。もはや自分に日付の感覚は無かった。
ある夜救急車で運ばれるも点滴を打たれ、タクシーで家に返される。
数日「命があぶない、寝たら死んでしまう」といって頑なに眠らない、食べないのが続き、いよいよこのままこれに付き合っていたら自分の身体が壊れてしまうと感じた母は、4/10の夕刻、改めて救急車を呼んだ。私は担架に乗りながら救急隊員の声かけに答えられず、ただ眼球が震えている感覚があった。
意識障害と発熱、脱水、呼吸不全といった症状で病院を探してもらった結果、総合内科のあるK病院へ搬送される。とにかく「このまま家に居ては命があぶない」という意識だけは強かったので母同様に私自身も入院できることでかなり安心したのを覚えている。
母は5日ぶりに自宅に帰った。
4/10〜4/29 入院そして退院
病院に着いてすぐにコロナの検査をし、点滴をし、バイタルデータを取ったあとCTやMRIの画像検査室っぽい所に入ったこと、その夜は地下の隔離個室で一泊したこと、横の部屋で夜中じゅう検査データを見るチームがいたこと、、などは微かに覚えているが、それ以外は、、正常な今振り返ると夢か幻覚か?文字にすると狂気のシーンばかりなのでここでは控えておく。相変わらず何かしらのスナイパーに命を狙われてる感覚はあった。これだけでも文章にしてみるとかなりやばい状態だね…
翌日から1週間の記憶は途切れ途切れで、週の終わりに病棟が変わったこと、同室のお爺さん2人のせん妄が煩さかったことくらいしか覚えていない。実際この期間は完全に意識障害で混沌としていたそうです。重症病棟だったのでしょう。
この頃、人生のおさらいをゆっくりとするような、走馬灯のような夢のようなものを、毎朝明け方に見た。
4人部屋にうつった2週目くらいから意識は戻り、毎朝の「今日は何月何日ですか」にも答えられるようになった。危険防止のベッドの柵も取れた。テレビカードもなくスマホもなく暇でしょうがなくて、身体に繋がれた心電計モニターを手持ち無沙汰にいじるしかなかった。
かつて仕事で心電計の取説を作っていたこともあったが、まさか40代でエンドユーザーの立場になるとは思いもしなかった。
外から選挙カーの音がする。選挙があるっぽい。
(期日前ができるわけもなく、人生初の選挙棄権、無念)
そういえば、意識が戻ってからあんなに痛かったお腹がぜんぜん痛くない。いやな張りもない。
いつぶりかわからないけど、お風呂に入れるという。お風呂め鏡に映る身体はとても頼りなく細く、痩せていた。
入院時の様子がトラウマで若い看護婦さんは私と接する時に震えてる人もいて、お風呂に入れてくれた看護婦さんは同い年のベテランだった。「こんなことになっちゃって、、」とこぼし、私を憐れんでいる雰囲気が垣間見られた。だが、私はまだこれといった確定診断を告げられていないので何とも言えない気持ちに。彼女にこれまでの人生を聞かれ海外に住んでたこともあることを話すと、同じだけ生きてても自分は海外旅行にすら行ったことがないと驚かれた。
食事はゼリー食。それまでの栄養はずっと点滴だったようで、針をあちこち刺しすぎて腕は青い跡だらけ、まあグロテスク。
母がお見舞いに来れるようになり、毎日15時に顔を出した。体温が34度台とか、血圧が上100切ってるとか不安を吐露しまくって時間は終わる。
3週目にはスマホも持ってきてくれた。
病名がわからないので誰かと連絡を取る気にもならず、宮本とか田口のYouTubeを見ていた。
この時点でまだ検査は継続中で、はっきりとした病名は知らされていなかった。引き出しの中に、入院時の書類を見つけた。入院時の病名は肺塞栓症。スマホで肺塞栓症を調べると末期がんの合併症である場合もあるらしい…
意識障害と妄言により脳内も色々調べられていて、引き出し書類の中には脊髄から取る髄液検査の承諾書もあり「意識障害のため医師が代筆」とある。そんか怖い検査してたの、全然気づかなかったよ。。
ともあれ入院までの腹痛の経緯からして、きっと手遅れの婦人科疾患だと私は勝手にアタリをつけ、医者は隠してるだけだと思っていたので、死んで預金が凍結される前に今のうちにおろすよう母に頼んだ。結局退院まで毎日、1日の限度額をコツコツ下ろしてくれていた母の気持ちを思うと忍びない。
もう長くないと思ったら、窓の外に見える慣れ親しんだ三角のランドマークを見るのもつらくなった。私と同い年のその建物は惜しまれながら今年無くなってしまうのであった。
翌週、また病棟を移った。看護チームのムード、フロア全体のリラックス感により、自分が少し快方に向かってるのかなと淡い期待を持つ。と同時にもはや手遅れで、とりあえず放置されてるような気もしていた。
リハビリを毎日淡々とこなした。自転車が全然漕げなくなっていたけれど、周りのお年寄りに比べるとダントツに歩けるのでリハビリの先生と外に散歩に行った。
エイプリルフールに一緒にいて、 自宅の意識混濁時にお見舞いに来てくれた友達、 GWの予定を約束していたのに、返事ができていない友達、それぞれに連絡を取ると、皆心配して
お見舞いに来てくれるそう。
それぞれ約束を取り付けた翌朝、 主治医の巡回で「GW前に退院してみる?」との言葉。突然すぎる。
ついでに主治医に、そろそろ病名を知りたいと伝える。この三週間色んな検査で、あらゆる可能性を消しこんだ結果、「自己免疫介在性脳炎」という病名だと告げられた。
ウイルス性でもなく傍腫瘍性でもないため、はっきりとしか原因もなく退院してから気をつけるべきは、規則正しい生活と栄養と運動。
至極当たり前のことでしか再発を防げないのは不安だが、命をとりとめ、退院まてできるのだから全てよしとしたい。
見舞いに来た母に明日退院と話すと、喜ぶとともに意外と早かったねと驚いていた。やはり長い入院を覚悟していたみたいだった。
GWはリハビリ的にゆっくり自宅で生活を戻し、食べたかったものを食べた。食欲の復活からは回復に加速がかかり、退院後の通院日には数値も全て良く、すっかり健康体に戻った。
ここ数年の緩やかな体調悪化は更年期だろうとたかをくくっていたけれど、身体の疲れが蓄積してたんだろう。
見ての通り丈夫だけが取り柄だと思っていたので40代を入院騒動で締めくくることになるとは思いもしなかったけれど、今まで以上に自分を大切に、会いたい人には会い、やりたいことは身体に無理が来ない程度にかろやかにどんどんやりたい。
有限な命を思い知るには十分な経験だった。
79歳の母には相当な負担をかけてしまったので、一生親孝行します。
食欲旺盛な夏の日記
帰って大学院の宿題を粛々とやった。
3連休の日記
ふと我にかえると朝風呂タイムのリミット9時の5分前で、追い立てられるように銭湯を出た。7月から銭湯料金は500円。銭湯は贅沢な趣味になってしまったと平日朝のラジオで言ってました。
オンライン英会話の16:30ギリギリまで起きないなんて、誰が想像できただろうか。
実際に書き始めたのは皿も洗い終わった夕飯後。「生活」といううすのろを乗り越えることはむつかしい。
まだこんなに楽しく書けることがわかったのは収穫だ。
日記といえども自分で立てた締め切りは守りたい。
2019ベスト温泉
2019 Oh My Best Onsen Ever
いつにも増して行動範囲が広がった1年で、今まで行けなかった場所にも足を伸ばしました。別府にも2回行ったし、大分〜熊本の間にオープンした竹田温泉クア施設にも。大分市内、飲み屋街ど真ん中にある府内温泉のポテンシャルの高さにおんせん県大分の懐を知ったな。初冬には青森の酸ヶ湯温泉(ヒバ千人風呂)にもやっと行けました。大好きな有馬温泉には行きつけの半混浴日帰り湯宿を作ったり。ゴールデンウィークに自転車旅行で行った渋温泉街も良かった。
そんな温泉ライフの中でも強くお肌の印象に残った温泉をご紹介。
【泉質部門】
花山温泉 薬師の湯(和歌山)9月
残暑も陽射しも厳しいおり、新快速+くろしおでGO 和歌山は車で海水浴に行った以来、15年ぶりだったと思う。今回は電車。くろしおの安全のしおりが対津波であることに気が引き締まりつつ、地震と火山と温泉は全て地球の営みであり切っても切れない関係であることを改めて思う。駅からタクシーで5分ほど、何処か懐かしい佇まいの宿も併設した温泉施設に到着。地元の農産物をはじめとしたお土産もあり、温泉までの廊下に強く噴き出す炭酸泉のデモに迎えられ、10分ほど凝視したりムービーを撮ったりした。浴槽にはびっしりと湯の花の堆積物が付いていて、なんともSFチックであった。効く温泉と問われたら、まずここを勧めたいし来年は宿泊もしたいな。
【温泉旅館部門】
加賀温泉・瑠璃光(石川)7月
加賀温泉フェスの宿泊場所として瑠璃光を取ってもらったのですが到着してみると恐れ多いくらい良い部屋で今後これ以上の所に泊まれるのか?!くらいに思ってしまいました。森の中の大浴場も素晴らしく、人がこないうちに一番風呂をいただき最高でしたね。節目にまたゆっくり一人で来たい気もするけど、あっという間に来年のフェスになってそう。
【銭湯部門】
加茂温泉 9月
仁左衛門の湯の回数券があるので、ほとんど銭湯には行かなくなってしまったのですが、残暑の厳しさの中、クラッシュアイスがオートマチックに繰り出される水風呂があるいう噂を聞きつけ訪問。堀川北山の交差点を東に進み、新町通を南へ、一筋目を東に。オープンと同時に行ったので私と常連と思しき2名でサウナ、水風呂、薬湯をそれぞれが独り占めできるローテーションで回せたのも良かった。わかっている人がいる現場は良いですね。スチームサウナはプラス料金もなく、氷はトゥーマッチなくらい豊富でした。
【スパ銭部門】
なごみの湯(荻窪)12月
実家に一番近いスパ銭でありながら近年の都内スパ銭大充実時代の余波を受け、施設も古くて微妙な位置付けのこの「なごみの湯」からは足が遠のいていた。しかし露天風呂が(運搬された)天然温泉になったという情報を受け久しぶりに行くと、露天はさておき女性風呂に超高濃度炭酸泉が誕生していて!炭酸濃度1300ppmというバッキバキの炭酸ビームに満たされた素晴らしい時間が過せました。住宅地の近くにこの炭酸濃度はヤバい、近所に住みたい、実家帰るか?? そう思う程にこの炭酸泉は日常使いとして相当レベルが高い。温泉成分による効果を除き炭酸のパワーだけで考えると、灘温泉や竹田温泉、さやの湯、テルマー湯、スパワールドのいずれも上回ると思います。日本の炭酸泉行ってる女ベスト50には入る私にとってまさに灯台下暗しの2日前の出来事でした。進化とキャッチアップは大切と改めて思った2019の暮れ。男湯にも炭酸泉あったら良いのにね。
※灘温泉、仁左衛門の湯、おとめ塚、スパワールド、さやの湯、有馬温泉・御所房(日帰り/宿泊)は所謂殿堂入り、レギュラーローテーション入りしております
2020年はドイツの炭酸泉に行きたいと思います。
0:00を過ぎる前に
仕事でがっつり文章を書くようになって3ヶ月、たまには散文も書きたいもので半身浴のお供につらつらと。
広報たるものセルフブランディングをするべしという部門理念のもと全員がプロカメラマンによるプロフィール写真を撮ることになりまして今日が私の撮影日。他にも使っていいらしいので、美容院でくせ毛を伸ばしたりそれなりに準備をしつつ臨んだものの。
カッチリめのとカジュアルなのと、もう一つフリースタイルシーンがあるという。聞いてねえぞ。アドリブテストである。
社会人人生、仕事柄数限りなくタレントさんやモデル、ミュージシャンといった有機物からベットやソファなどの無機物まで、撮影立会いやインタビュー、はたまたわたしが臨時のカメラマンをすることなどもあったけど撮られるのは早稲田のミスコン(19)と日経ウーマン(28)っていう数える程で、もう、見た目も変わってるし笑顔の作り方すらも忘れてた。自撮りと他撮りは別物ですね…
途中からMacのモニターみるのつらかった…
癖でカメラマンさんにインタビューしながらフリースタイル撮影は進んだんだけど、何やら磔磔でよく撮影されているらしく音楽の話になる。自分が一番最近磔磔で観たのが中村佳穂さんなので、彼女の話をひとしきりヲタク語りしてしまい、全然インタビューじゃなくなっちゃったしカメラマンさんばかりみてしまい、かっこいい視線外しもできなかった。
しかし当て振りでも20年もピアノを習っていたらそれなりにみえてたようで、結局フリー写真は中村さんの良さを伝えながらモノマネをしているシーンが採用された。
リドで打ち上げて帰宅。見上げると京都タワーがトゥーマッチな光。
桂坂に登り、ドライブついでにまだかよわい頃の京都タワーの灯りが0時に消えるのを待っていた日々。
ついこないだのような気がしてたけど、脳裏に残るMacモニターに映る私がそんなことはないぞと笑う。
そこはかとない情熱の果て
(ネタバレ注意)
いま撮る写真は風景ばかりだけど、相変わらず写真は好きでテレビに飛ばして自画自賛したりしている
『愛がなんだ』という映画を観た。余計なテーマを混ぜることなく、落ち着いた視点で丁寧に恋愛を扱っていて好感をもったし、主人公の「わたしは社会を回すために生きてるんじゃない」って言葉だけは共感した。
凸凹を補いあうように主人公2人がうまく行けばよいのに、(作品を貫く、どこか客観的な視点によって)現実は難しいことが露わになっていた。
メインの四者の主観「目線」で描きながら、ストーリーのなかで客観としてみせるテクニックとバランス感覚が素晴らしい、邦画は繊細でいいな‥
なんて思い感想をみにいってみると、いずれかの人物、特に人面犬2匹に激しく感情移入されてる方が多いようで姉さん戸惑ってます!
この作品はある程度経てる人か恋愛と距離置いてる期間じゃないとバランスと距離感取って観ることはできないのかもしれないね。
健気ないぬのきもちは私だって少しは分かる。若かりし頃の懐かしいふるまい。
----あの頃、毎週末の生活とともにフイルム三本くらいの写真を撮り現像してを繰り返していたあのパワー、ああいった類の愛情の向け方。好きこそものの上手なれで、気まぐれで出した写真雑誌で賞をもらったりしたけれど、手元に一枚も残っていない。でもあの時はただただ大切な時を沢山撮りたかった。
今や撮影自体がこんなにカジュアルになったのに、恋愛生活のまぶしい一瞬を相手を被写体にシャッターで切り取るなんてもうすっかりしなくなった。
人にビールを頼まれて買った事もカートン買い置いて待った記憶もないけれど
スミレさんよろしく「人とも場所とも関係性が煮詰まるのが苦手」になってずいぶんたつ私にも、犬彼女みたいなことがないわけではなかったのだ。
四者の姿はどれも、巡り合わせの中で一人の人間に表出し得る様相だと思う。
あの頃私に「お前は健気やな…」って泣いた偏屈な人はどこでなにをしているのやら。
正直今日まで思い出すことすらなかったけれど。