marhythm

Rhythm, Philosophy, Joy of seasons

意識障害、緊急搬送、走馬灯

(先に書いておきますが、入院中時間をかけて隈なく検査いただき出た診断名は「自己免疫介在性脳炎」でした。この病気は重篤なものから軽度のものまで様々あり、当初意識障害がひどく重篤だったにもかかわらず周囲も驚く回復で寛解することができました。入院先の主治医をはじめ、入院前にお世話になった病院やクリニックなど、ご尽力いただいた医療職の皆様には心から御礼を申し上げます。)

 

 

4/1  エイプリル・フール

親友のYと代官山で夕ご飯まで過ごす。さっきまで元気に飛び跳ねていたのだが、いつものような食欲がない。少し前から気になっている、お腹の張りもMAXな感じ。帰宅のゆるやかな坂を上るのにもお腹を押さえながらでないとしんどい。

夜中に下腹が痛くて目が覚める。胃腸系ではなく、何となく婦人科系のような。先々週ホルモンチェックのオマケに受けた子宮体がん検査のことが気になる。とにかく眠れないし不穏なので#7119に連絡し、夜間対応病院をリストアップ。自力でタクシーに乗り、エコーと触診で診察を受けるも見た限り消化器および骨盤内には緊急性のある異常はないとの判断。私が食い下がると研修医は先輩医師を呼んでくれたが、判断は同じだった。

先輩医師は「 お金もかかっちゃうし、一刻を争う症状でない限り、夜中に病院に来るものではない」的なことをやんわり言ってきたが、私にとっては人生初の、一刻を争うくらいに感じる痛さだったのである。モヤモヤしながらタクシーで帰宅すると夜中の3時だった。

 

4/2 助っ人来たるも暗雲

近所に住む母が朝来る。春先から毎週のように公園のカワセミを観に行っているので、今日もそのつもりで我が家に集合。しかしやっぱり調子が悪い。お腹が痛いだけじゃなく、歩くのがしんどい。頭も痛い。耳鳴りがする。昨晩寝れなかったせいかもしれないが。

今日になって不正出血も少しあったので、母に体調のことを打ち明ける。婦人科疾患を疑うしかない頭になり、先輩のアドバイスで翌日都心にある著名婦人科にいくことになった。

 

4/3 心配すぎてセカンドオピニオン

通勤ラッシュの中電車に乗れる体調ではないので、タクシーで著名婦人科へ。母がついてきてくれた。1人で行動するのが難しいくらい、フラフラなので正直助かる。

クリニックに着くと朝イチなのに30人くらい待っていて、診察を受けたのは14時過ぎ。

エコーと触診では既往症の子宮筋腫以外、所見なし。こんなにお腹痛いのに?!そこで、近所のクリニックで既に受けている体がん検査以外のあらゆる女性疾患についても調べてもらうべく、組織や血液を提出。生まれて初めてMRIも受ける。結果は2週間後。

 

4/4〜4/10  自宅で意識が飛びはじめる

横になったりならなかったりの中、意識がたびたび飛び始めるが、ハッと気づいて起きる(寝ようとしない)の繰り返しが数日続く。もはや自分に日付の感覚は無かった。

ある夜救急車で運ばれるも点滴を打たれ、タクシーで家に返される。

数日「命があぶない、寝たら死んでしまう」といって頑なに眠らない、食べないのが続き、いよいよこのままこれに付き合っていたら自分の身体が壊れてしまうと感じた母は、4/10の夕刻、改めて救急車を呼んだ。私は担架に乗りながら救急隊員の声かけに答えられず、ただ眼球が震えている感覚があった。

意識障害と発熱、脱水、呼吸不全といった症状で病院を探してもらった結果、総合内科のあるK病院へ搬送される。とにかく「このまま家に居ては命があぶない」という意識だけは強かったので母同様に私自身も入院できることでかなり安心したのを覚えている。

母は5日ぶりに自宅に帰った。

 

4/10〜4/29 入院そして退院

病院に着いてすぐにコロナの検査をし、点滴をし、バイタルデータを取ったあとCTやMRIの画像検査室っぽい所に入ったこと、その夜は地下の隔離個室で一泊したこと、横の部屋で夜中じゅう検査データを見るチームがいたこと、、などは微かに覚えているが、それ以外は、、正常な今振り返ると夢か幻覚か?文字にすると狂気のシーンばかりなのでここでは控えておく。相変わらず何かしらのスナイパーに命を狙われてる感覚はあった。これだけでも文章にしてみるとかなりやばい状態だね…

翌日から1週間の記憶は途切れ途切れで、週の終わりに病棟が変わったこと、同室のお爺さん2人のせん妄が煩さかったことくらいしか覚えていない。実際この期間は完全に意識障害で混沌としていたそうです。重症病棟だったのでしょう。

この頃、人生のおさらいをゆっくりとするような、走馬灯のような夢のようなものを、毎朝明け方に見た。

4人部屋にうつった2週目くらいから意識は戻り、毎朝の「今日は何月何日ですか」にも答えられるようになった。危険防止のベッドの柵も取れた。テレビカードもなくスマホもなく暇でしょうがなくて、身体に繋がれた心電計モニターを手持ち無沙汰にいじるしかなかった。

かつて仕事で心電計の取説を作っていたこともあったが、まさか40代でエンドユーザーの立場になるとは思いもしなかった。

外から選挙カーの音がする。選挙があるっぽい。

(期日前ができるわけもなく、人生初の選挙棄権、無念)

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そういえば、意識が戻ってからあんなに痛かったお腹がぜんぜん痛くない。いやな張りもない。

いつぶりかわからないけど、お風呂に入れるという。お風呂め鏡に映る身体はとても頼りなく細く、痩せていた。

入院時の様子がトラウマで若い看護婦さんは私と接する時に震えてる人もいて、お風呂に入れてくれた看護婦さんは同い年のベテランだった。「こんなことになっちゃって、、」とこぼし、私を憐れんでいる雰囲気が垣間見られた。だが、私はまだこれといった確定診断を告げられていないので何とも言えない気持ちに。彼女にこれまでの人生を聞かれ海外に住んでたこともあることを話すと、同じだけ生きてても自分は海外旅行にすら行ったことがないと驚かれた。

食事はゼリー食。それまでの栄養はずっと点滴だったようで、針をあちこち刺しすぎて腕は青い跡だらけ、まあグロテスク。

母がお見舞いに来れるようになり、毎日15時に顔を出した。体温が34度台とか、血圧が上100切ってるとか不安を吐露しまくって時間は終わる。

3週目にはスマホも持ってきてくれた。

病名がわからないので誰かと連絡を取る気にもならず、宮本とか田口のYouTubeを見ていた。

この時点でまだ検査は継続中で、はっきりとした病名は知らされていなかった。引き出しの中に、入院時の書類を見つけた。入院時の病名は肺塞栓症スマホ肺塞栓症を調べると末期がんの合併症である場合もあるらしい…

 

意識障害と妄言により脳内も色々調べられていて、引き出し書類の中には脊髄から取る髄液検査の承諾書もあり「意識障害のため医師が代筆」とある。そんか怖い検査してたの、全然気づかなかったよ。。

 

ともあれ入院までの腹痛の経緯からして、きっと手遅れの婦人科疾患だと私は勝手にアタリをつけ、医者は隠してるだけだと思っていたので、死んで預金が凍結される前に今のうちにおろすよう母に頼んだ。結局退院まで毎日、1日の限度額をコツコツ下ろしてくれていた母の気持ちを思うと忍びない。

もう長くないと思ったら、窓の外に見える慣れ親しんだ三角のランドマークを見るのもつらくなった。私と同い年のその建物は惜しまれながら今年無くなってしまうのであった。

 

翌週、また病棟を移った。看護チームのムード、フロア全体のリラックス感により、自分が少し快方に向かってるのかなと淡い期待を持つ。と同時にもはや手遅れで、とりあえず放置されてるような気もしていた。

リハビリを毎日淡々とこなした。自転車が全然漕げなくなっていたけれど、周りのお年寄りに比べるとダントツに歩けるのでリハビリの先生と外に散歩に行った。

エイプリルフールに一緒にいて、 自宅の意識混濁時にお見舞いに来てくれた友達、 GWの予定を約束していたのに、返事ができていない友達、それぞれに連絡を取ると、皆心配して
お見舞いに来てくれるそう。

それぞれ約束を取り付けた翌朝、 主治医の巡回で「GW前に退院してみる?」との言葉。突然すぎる。

ついでに主治医に、そろそろ病名を知りたいと伝える。この三週間色んな検査で、あらゆる可能性を消しこんだ結果、「自己免疫介在性脳炎」という病名だと告げられた。

ウイルス性でもなく傍腫瘍性でもないため、はっきりとしか原因もなく退院してから気をつけるべきは、規則正しい生活と栄養と運動。

至極当たり前のことでしか再発を防げないのは不安だが、命をとりとめ、退院まてできるのだから全てよしとしたい。

見舞いに来た母に明日退院と話すと、喜ぶとともに意外と早かったねと驚いていた。やはり長い入院を覚悟していたみたいだった。

 

GWはリハビリ的にゆっくり自宅で生活を戻し、食べたかったものを食べた。食欲の復活からは回復に加速がかかり、退院後の通院日には数値も全て良く、すっかり健康体に戻った。

 

ここ数年の緩やかな体調悪化は更年期だろうとたかをくくっていたけれど、身体の疲れが蓄積してたんだろう。

見ての通り丈夫だけが取り柄だと思っていたので40代を入院騒動で締めくくることになるとは思いもしなかったけれど、今まで以上に自分を大切に、会いたい人には会い、やりたいことは身体に無理が来ない程度にかろやかにどんどんやりたい。

 

有限な命を思い知るには十分な経験だった。

 

79歳の母には相当な負担をかけてしまったので、一生親孝行します。